1970年代
1970年代はトライアンフにとって悲惨な時期となりました。スタージョンは指揮を取るようになって3年後に死去し、ライオネル・ジョフェ(Lionel Jofeh)が後継となりました。スタージョンと同様に、ジョフェもビジネスとは縁のない人物でした。彼も長くは続かず、トライアンフの指揮はブライアン・ユースタス(Brian Eustace)に引き継がれました。BSAグループ全体のマネージメントが不安定となり、絶えず一貫性のない変化が生じました。
皮肉にも、3気筒エンジンはレー
ストラックでほとんど無敵の強さを誇り、多くのフォーミュラ750レースで勝利を収めました。またIoMプロダクションTTレースでは「スリッパリーサム」と呼ばれる車体に搭載され、71~75年の5連勝を成し遂げています。
内部的な混乱と日本メーカーの急速な成長によってトライアンフは窮地に追いやられ、1971年にBSAグループは850万ポンドの損失を記録しました。翌年は330万ポンドの損失となり、復調の見込みはありませんでした。1973年、政府の資金援助により、新しい企業、ノートン・ビリヤーズ・トライアンフが形成されました。トライアンフ従業員の望みに反して、ノートン・ビリヤーズ・トライアンフは、トライアンフの生産をバーミンガムのスモールヒースにあるBSAの工場に移すことを計画しました。
その結果、メリデンの作業者たちは、約2年間続くことになる座り込み抗議を行いました。1975年3月、主にアメリカ市場向け750 ccボンネビルの生産のために作業者たちの協同組合が設立され、座り込みはようやく終わりました。
この時期にも、77年式ボンネビル・ジュビリー・スペシャルやキャストホイール付きT140Dスペシャルといった注目すべきバイクが生産されましたが、残念ながらその後閉鎖を知らせる通知書が工場の壁に貼られることになります。
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